sgotoの日々是好日

茶道と共に歩み考える日々を綴ります

おいしい薄茶の法則

ある日の薄茶


近頃私は毎日家で薄茶を飲んでいる。

きっかけはコロナ禍でお茶の稽古ができない日々が続いたことだった。定期的にお稽古をしていれば薄茶を飲むチャンスはいくらでもある。以前はご近所のお茶の先生のところに遊びにいけば、ちょっと上等な濃茶をいただくような贅沢もできた。が、それらが全部できないということになると抹茶を飲む機会そのものがない。

そこで家ではコーヒーの代わりに薄茶を点てて飲むことにした。幸いなことに夫もお茶の心得があるから交代で薄茶を点てる。特別な茶道具を出すわけではなく、食器棚から抹茶茶碗を出し、冷蔵庫から抹茶を出し、ポットのお湯を使ってキッチンでお茶を点てる。

ただそれだけのことだが、私たちはこの「家で飲む薄茶」に見事にハマってしまった。

最初はちょっとお菓子をいただいて薄茶を一人一服だけだったのが、すぐに二服になった。今では多いときは三服続けていただくこともある。薄茶を点てる頻度も一日一回から午前と午後の二回になった。

そんなわけで今はだいたい一日に四服から五服程度薄茶を飲んでいる。一服1.5gで計算すると一人6〜7.5g、二人合わせて12〜15g。計算上一ヶ月でで360g〜450gということになる。(裏千家の鵬雲斎大宗匠は一日に小さい抹茶の缶(約3-40g)分くらいをお飲みになるというからそれに比べたらまだ大したことはないだろう)

これだけの量の薄茶を飲んでいると「おいしい薄茶とは?」というのを少しばかりまじめに考えるようになる。私たちの流儀では表面が全てふんわりとした泡で覆われた状態を良しとする。どうすればふんわりとしたクリーミーな泡が立つのか、茶筅選び、茶筅の振り方、お湯の温度などの条件を様々に変えては色々と試してみることにした。

お茶の世界では茶筅は消耗品扱いなので「誰が作ったものか」を意識しないで使うことの方が多いけれど、わが流派のお家元がお使いの茶筅は和北堂の谷村丹後さんという茶筅師の方の「真数穂」であるということは私もわりと最近になってから知った。

お茶の先生によってはお稽古で「八十本立」「百本立」などの太い茶筅を使わせる方もいらっしゃるそうだが、これらは太すぎて茶筅の正しい持ち方・振り方が身につかない。わが流派の茶道をやるならやはり形は「数穂」または「真数穂」が良い。いろんな茶筅師さんの茶筅を入手して比較してみたりもしてみているが、使い勝手の良さや茶筅の形の美しさや耐久性など茶筅師さんごとにこだわりポイントには違いがあって面白い。

どんな茶筅を使うか以上に薄茶のおいしさに関わるのはやはり茶筅の振り方だ。十分に茶筅が振れていないと飲み終えた茶碗の底に抹茶が残ることがある。かといって、いつまでも茶筅を振っているとお茶の香りが飛んでしまう。振り方によって泡の立ち方も変わってくる。どういう風に茶筅を動かすか、何回くらい振ればよいか、ここは一番研究の余地がある。

抹茶の量はお稽古では「茶杓に一杯半」と教えているが、私自身濃い目の薄茶が好きなので家では「山盛り一杯プラス普通に一杯」くらいの量を入れている。夫の薄茶はもう少し量が少ないようだ。これだけは好みもあるので何とも言えないが、お茶を習っているとどんどん濃い目の薄茶が好きになっていく人が多いような気はする。

お湯の温度は沸騰したてのお湯では熱すぎるのでポットにほんの少し水を差した方がいいこともわかった。面白いことに冬の方が多めに水を入れる。夏の茶碗は平たいものが多くあっという間にお湯が冷めるからお湯を最初からぬるくしすぎない方がよいようだ。

まぁ、こんな具合で日々お互いにあれこれ感想を述べ合いながら二人で薄茶を点てては飲む日々が続いている。正直に白状するとこうした数々の実験をしたのは主に夫であり私はその研究成果をちゃっかりと享受しているのだが。

彼の地道な研究の影響もあって私自身の薄茶の点て方はかなりマシになった。その証拠に茶筅の傷みが減った。どうやら私は今まで茶筅の穂を茶碗の底に強く当てすぎていたようだ。そのことが分かっただけでも大きな収穫だ。

薄茶の加減というのもわかってきた。「今日はいただきものの和菓子があるから濃い目でたっぷり」とか「おなかがいっぱいだから小服で飲みたい」のように、その時のニーズに応じて薄茶の点て方を変えることもできるようになった。頭で理解したことを実現するにはやはり何服も茶を点てて練習することというのは大切なのだな、と実感している。

が、同時にここまで列挙してきたさまざまな小手先の技に勝る「おいしい薄茶の法則」というのが厳然として存在することに私たちは気づいてしまった。

それは

 自分で点てたお茶より人に点ててもらったお茶の方が圧倒的においしい

である。なんとなく気付いてはいたけれど、毎日薄茶を飲むようになってそれはよりはっきりした確信になった。

夫は薄茶を点てるのが私よりも上手い。一般に男性は力があるので茶筅を力強く振ることができる。彼はさらに研究熱心でもあるからお茶の香りが飛んでしまわないよう少ない回数でいかにきれいな泡を点てるかのこだわりもある。夫の点てる薄茶は見た目に美しく飲んでおいしい。

が、その夫が私の点てたお茶を「自分で点てたのより旨い」というのである。毎日のことだし彼は私にお世辞を言う必要はないはずだ。私は一つの仮説を立てた。

誰かが自分のために点ててくれた薄茶の持つ付加価値はあなどれないほど大きい

のではないのか。

そういえば亡き師匠は「心のきれいな人の点てる薄茶はおいしい」とよくおっしゃっていた。妹先生(私の師匠は姉妹でお茶を教えていた)は「おいしくなあれ、おいしくなあれと念じながら点てると良いのよ」と繰り返し言っていた。薄茶をおいしく点てるには「気持ちをこめることが第一である」ということはとっくの昔に教わっていたのだった。

考えてみるとお茶会の時に薄茶の点前をしてくれるのはたいてい若くてまだ茶道を初めてから月日の浅い方たちだ。彼女らが点てるお茶より水屋に控えている先輩たちが裏で点ててくれたお茶の方が出来が良いはずだが、お正客が飲むのは点前をされた方が点ててくださったお茶の方だし、たとえ拙い出来の薄茶であってもお正客は喜んでそれを召し上がる。「それが礼儀だから」ではなく本当においしく感じられるからだ。

目の前で誰かが点前をしてお茶を点ててくれる。そしてその人が真剣においしい薄茶を点てようとしてくれているのが分かるとそれは特別な一服になる。点前を通じて感じられる「真摯な思い」が飲む人に「お茶のおいしさ」として伝わることをお茶人さんたちは昔から知っていたのではないか。

結局のところ「思い」と「技術」の両方の条件が整ってはじめて「おいしい薄茶」は成立するということなのだろう。よりおいしい薄茶を求める追求の道に終わりはないのだ。