sgotoの日々是好日

茶道と共に歩み考える日々を綴ります

茶箱点前の思い出

毎朝窓を開けるたびに少しずつセミの声が大きくなってきた。茶箱のシーズンの始まりである。

私の師匠は毎年梅雨が明けると茶箱の稽古をした。理由は「暑いから」だ。たしかに、真夏にお湯の煮えたつ釜の前に座ると汗が噴き出してくる。というよりダラダラと流れる汗が止まらない。これを緩和する方法として釜を鉄瓶に変えて稽古をする。鉄瓶でできる点前といえば茶箱である。

八月は稽古を休みにするお茶の先生が多いことは最近まで知らなかった。昔の茶人のように「夏は朝茶」と気軽には言えない。夏も仕事があったり、子供が夏休みになったり、バカンスや帰省に遠出したり、なんやかやと皆忙しい。そんな中でいつものように稽古を進めるための知恵の一つが茶箱の稽古なのだと思う。

茶箱というのは縦約二十二センチ、横と高さが約十四センチほどの箱で、その中に茶碗や茶筅茶杓、茶巾、棗などお茶を点てるのに必要な道具をあらかじめ仕組んでおく。茶箱の点前はこの箱を運び出して中から道具を出し、お茶を点てる。終わったらまた箱に仕舞っていくというものだ。

裏千家流にはこの茶箱点前が六種類ある。毎年夏に一ヶ月だけの稽古だと、五年や十年続けたところで六種類全部の点前がスラスラできるようになんてならない。ようやく覚えた、と思っても一年経つと結構忘れてしまう。

私は茶箱点前を覚えるのが苦手だった。何度やっても忘れる。茶箱の中からいつ振り出し(金平糖を入れた菓子器のことだ)を出すのか、いつ建水を前に進めるのかさっぱりわからない。師匠の言う通りに体を動かすことはできるがいざ一人でやろうとするとまったくお手上げだった。

それでもなんとかしてこれを覚えたかった若い頃の私は、無謀にも師匠にお願いして茶箱を買ってきてもらうことにした。おしゃれな街の古い喫茶店で待ち合わせて茶箱を受け取ったとき、私はとても嬉しかった。何しろ茶道具を買うのはそれが初めてだったから。

が、それで家でも茶箱の稽古をするようになったかというと、そんなことはなかった。師匠の買ってくれた茶箱セットはそれは可愛らしく素敵なものだったが、肝心の「茶碗」が入っていなかったのだ。それを自分で見つけて買う、そんなことすら当時の私にはとても敷居が高かったし、「茶箱用の小茶碗がほしい」と師匠に言い出すのもなんとなくためらわれた。

転機はある日突然やってきた。青年部の茶会で茶箱点前をすることになったのだ。裏千家の青年部というのは社中とは別の組織なので、その茶会で点前をするとなると失敗は許されない。自分の師匠に恥をかかせてしまうからだ。私は茶箱の初歩と言われる「卯の花点前」を必死で練習して(もちろん稽古場の茶箱を使って、だけれど)本番までになんとかそれを頭にたたきこんだ。

だが、茶会の当日、私は大きな失敗をした。古帛紗の上にお湯をこぼしたのである。それも古帛紗がしっとり濡れるほどドボドボと。

理由ははっきりしていた。私の腕では鉄瓶を十分にコントロールすることができなかったのだ。稽古はもっと軽い薬缶を使っていたので、お湯のたっぷり入った大きな鉄瓶がこれほど重いものであることは点前が始まってそれを持ってみるまではわからなかった。正客の先生は一口お茶を飲むと「あら、古帛紗濡れてるわね」とおっしゃったが、お茶を運んだ半東と正客の先生以外は私の粗相には気づかなかった(と思う)。

二十数年が経過した今も濡れた古帛紗の柄がありありと目に浮かぶくらいしっかりと心に刻まれた大失態ではあったが、私はようやく卯の花点前を覚えることができた。これは大きな自信になった。

師匠は夏になると少しずつ新しい茶箱点前を教えてくれた。花点前、雪点前、月点前、色紙点前。面白いもので複数の種類の茶箱点前を習うと比較ができるようになる。共通点と相違点を見ていくうちに初めて手順の必然性が見えてくる。茶箱はとてもよく考えられた点前だということが今ではよくわかるようになった。

そして今、私は五人の方に「卯の花点前」を教えている。他人様に茶箱の稽古をつけるのは本当に勉強になる。そして茶箱の稽古に使っているのはその昔、師匠に買っていただいたあの茶箱だ。

茶箱用の小茶碗はいつの間にやら何個か買い求めていた。茶道具店で買ったもの、旅行先で求めたもの、偶然であった「出物」もある。茶箱点前は面白いし、気に入った茶箱道具を集めるのは本当に楽しい。そして、それ以上に私は茶箱の点前を教えるのが好きだ。

五人の方がこれから茶箱とともにどんな思い出を紡いでいくのかはわからないけれど、その道を共に歩むことに今からワクワクしている。いつかこの方々と一緒に茶箱点前で茶会をするのが私のささやかな夢である。