sgotoの日々是好日

茶道と共に歩み考える日々を綴ります

六十の壁

「和敬清寂」


「小1の壁」という言葉がある。共働きのご夫婦が子供が小学校にあがる際に直面する様々な問題のことだそうだ。なるほどうまいことを言うものだ。実は私も今とある壁に直面している。「六十の壁」だ。

 このところ私と夫の教える稽古場に見学を申し込んで来られる六十歳前後の初心者の方が増えてきた。女性だけでなく男性の方も少なくない。定年後の趣味として茶道が注目されているという話は聞かないが、何か理由はありそうな気がする。

 昨今の日本社会はあまり雰囲気がよろしくない。景気は悪いし差別は横行するし誰もかれもがギスギスしている。そんな中で何か心の安らぎのようなものを求める気持ちが生まれているのかもしれない。穏やかさや和やかさというのはたしかに茶道の性質の一面ではあるから。

 稽古の見学に来られた方々からお話を聞いてみると、自分の人生を振り返って「日本的なるもの」にもっと親しんでおきたかった、という気持ちが芽生えるものであるらしい。

 「親がお茶をやっていて茶道具が家にはまだ残っていたからやってみようと思った」

 「前からずっと興味は持っていたが、ようやく時間がとれるようになった」

 「お花がある程度できるようになったので、今度はお茶をやってみたい」

というようなお話をされる方も多い。たしかに定年を迎えて突然時間に余裕ができて、何か新しいことを始めたい、それなら茶道だ、と考える方が多いのかもしれない。それだけ茶道の家メージが良いということだろう。ありがたいことだ。

 だが、六十歳を超えた初心者の方に一からお茶を教えるのは私には難しい。目下の大きな課題である。見学に来たあとごく稀に入会される方があるけれど、大抵の方は二、三回(少ない人は一回)稽古に来ただけで辞めてしまう。

 今のところ成功例はゼロ。見事なまでに敗北している。

 一つには年齢を重ねた方々は「辛抱する」こと自体が難しくなってくるからだと思う。稽古中に正座をし続けること、おしゃべりせずに黙っていること、教えられたことに黙々と従うこと、そのためには辛抱が必要だ。辛抱するには体力が要る。が、歳を重ねて体力が落ちるにつれてそれができなくなる。

 人はそれを他人のせいにしがちだ。

 以前、とある上場企業の社長さんが「以前、お茶を習いにいってみたけれど、この先生に習ったら点前はできるようになるかもしれないが、私が求めていたのとは違うと思って三回ほど通って辞めてしまった」と話しておられた。日本文化における茶道の位置づけについて、禅宗との関わり、それをより深く知るために茶道をやってみたいと思っておられたらしい。

 先生は「点前をやってごらんなさい」というだけ。「利休と織部の茶道の違い」なんて話はしてくれないし「茶道の本質」や「禅宗と茶道の関係」なんて話はまったくでてこない。これは先生が悪いに違いないと思われたのだろう。

 でも、果たしてそうだろうか?

 日本全国どこの茶道教室に入っても言われるのは「点前をやってごらんなさい」ではないかと思う。お茶の先生が教えるのは「お点前」なのだから。まず最初に型にのっとった実践がある。なぜそうなのか、どうしてこうなっているのかは自分で答えを探していくというのが茶道の学び方。そこに気づくまではただ丸ごと先生の教えを受け入れることを続けなければならないことを今の私は知っている。

 それができないのは教える側と教わる側、どちらの責任なのだろう。

 そうか。私も同じじゃないか。「六十の壁」など本当は存在していないのではないか。あるのは私自身の限界だけ。その証拠に亡き師匠は六十歳を超えた初心者の方々にも指導をしていたし、多くの方は辞めずに稽古を続けていたではないか。

 なぜ、師匠がその方々を指導できたのか。それは茶道の先生として六十歳以上の方々からも信頼されていたからに違いない。「この先生の言うことなら間違いない」と信じられるかどうか、私と師匠の違いはそこにある。

 六十歳を超えてから新しく何かを始めようという気持ちはとても貴重だ。背景には必ずその人が求める何かがある。見学に来られた六十歳以上の方々に対してこのところかなり及び腰になっていたのだけれど、それを改めるところから始めよう。きちんと向かいあってその方の望みに応えられるかどうかを真摯に考えること。まずはそこからだ。