sgotoの日々是好日

茶道と共に歩み考える日々を綴ります

和巾点と玄々斎の出自

和巾と中次

 新型コロナウイルスの影響で今月はいつもの茶室が利用停止となり、稽古ができなかった。お茶のない生活というのは思いのほか私にとっては辛いものだったので、夫を相手に何度か家で稽古をした。

 家には炉が切ってないので急造の置炉、炉釜も今家には適当なのがないので風炉用の真形釜を使ったりとややアバウトなしつらえではあるが、風炉先屏風を立ててカーテンレールに色紙掛けを吊るし、ふすまを閉めれば我が家の六畳間でもそれなりに稽古場としての雰囲気は出る。 

 さて、私がどうしても自宅稽古でやりたかった科目の一つが「和巾点」だった。和巾点は幕末から明治初めにかけての裏千家の家元だった十一代玄々斎が考案された点前で、現在の裏千家では「中級」のレベルにあたる点前の一つである。「和巾」と呼ばれる古帛紗と中次を使うのが大きな特徴だ。

 中級レベルで習える点前は全部で五つある。「茶通箱」は客に二服の濃茶を出す点前で手続きがなかなかに煩雑である。「唐物」「台天目」「盆点」の三つは奥伝の点前を習う上で欠かせない。これら四種類の点前(総称して「四ヶ伝」と呼ばれる)については全国の裏千家の先生はみな熱心に教えてくださることだろう。だが「和巾点」についてはどうだろうか?お茶の世界ではよその稽古場の内情を知るチャンスはほぼないのだが、他人様のブログやSNSなどを読む限り、今ひとつ話題に上っていないように思われる。

 その理由は久しぶりに自分で点前をやってみるとすぐに分かった。この点前、手続き的には難しいところがない。和巾と中次の扱いこそこの点前ならではのものだが、中次は和物の扱いなので手順にも不自然なところはない。四ヶ伝科目を習った人ならあっという間に覚えられるだろう。奥伝との関連性はあまりない。教える側にとってもこれでは旨味が少なかろう、などと余計なことにまで考えが及んでしまった。

 

 おそらく和巾点という点前にとって重要なのは、点前手続きではなく付帯するストーリーの方なのではないかと思う。玄々斎という方は二度にわたって宮中に献茶を行っている。献茶というと今日では大きな寺院や神社で行われる家元が神仏にお茶を供える儀式を想像するが、玄々斎の献茶は抹茶と自作の茶杓天皇に献上したということのようだ。

 玄々斎は二度目の献茶の後、お返しとして下賜された品を用いて茶会を開いている。その際に披露されたのが和巾点という点前だと伝えられている。この時使われた中次は、献上した茶を入れた白木の中次を作った残りの木を使った「献残中次」だった。ということはそれを載せる古帛紗も下賜された布だったのではと思う。

 今は亡き私の師匠は和巾点の拝見で「お和巾のお裂地は?」という問いに「光格天皇よりの拝領裂でございます」と答えさせていたが、以前研究会で聞いた話によると「天皇から拝領した反物を加工することはあり得ない、そのまま取っておくもの」とのことだった。では、玄々斎が最初に披露した和巾(古帛紗)とはどういうものだったかというと「実はよくわからない」のだという。

 なんだか変だ。和巾点は和巾の由緒が重要な点前であるとされているのに、最初に使われた和巾にどのような由緒があったのかわからないなんてことがあり得るだろうか。それは当然点前とともに伝えられてしかるべきものだ。しかもせいぜい百年ちょっと前の話なのに。

 そもそも江戸時代の末期になぜ玄々斎が天皇に献茶をすることになったのかという背景もよくわからない。玄々斎自身は十代認得斎の実子ではなく、奥殿大給松平家という三河領主の家から十歳のときに裏千家に養子に入った人である。松平家といえば徳川家の親戚、なぜ武家出身の玄々斎が天皇への献茶にこだわったのか。

 実を言うと私はかつて師匠から玄々斎の血筋についてほのめかされたことがある。「玄々斎は高貴なお生まれの方だった」というのだ。師匠は淡々斎宗匠の時代から三十年間ほど京都に稽古に通っていた方だったので、師匠がそう信ずるに至る話を京都で聞いたのだろうと思うが、当時はさほど気に留めてはいなかった。「高貴な」というからには公家か宮家のお血筋なのかも、くらいに思っていたのだ。

 だが、自分でもお茶を教えるようになってから気になって調べてみた。もちろん公になっている玄々斎の出自は先に述べた通りであり公家でも宮家でもない。ただ私が師匠から習った和巾の裂地が「光格天皇の拝領裂」というのでは時代が合わないことも分かった。玄々斎が献茶をしたのは孝明天皇光格天皇の孫)であり、献茶をした頃には光格天皇はもう亡くなっている。もう一つ、和巾点の稽古の際によく使われる茶杓の銘「幾千代」というのは、光格天皇自作の茶匙の写しを玄々斎が好んで作ったものだということも分かった。

 玄々斎と光格天皇には何か特別なつながりでもあったのだろうか? あっ、もしや師匠がほのめかした「高貴なお生まれ」というのは光格天皇のご落胤という意味なのか?! 

 玄々斎が生まれたのは文化7年(1810年)、光格天皇は明和8年(1771年)の生まれだからこのとき39歳。Wikipediaによれば分かっているだけで皇子が八人、皇女が九人いらっしゃったそうだ。天皇に側室が何人もいらした時代の話であるから可能性はあると思う。江戸時代のことだから天皇は京都にお住まいだ。三河の領主より千家とははるかに近い。

 もし、私の思いつきが当たっているのなら、玄々斎がなぜ献茶をしたのか?なんてことは当時の人たちには自明なことだったのかもしれない。「ああ、あのお方は天皇のお血筋だから」と自ら言わずとも京都では誰もが知っていた、というのもありそうな話だ。

 和巾点という新しい点前を披露するにあたり、父からかつて贈られた裂地を使って古帛紗を作りそれを用いることにしたのだとしたら、それは「古帛紗が何よりも大切な点前」ということになるではないか。実はこの点前そのものが玄々斎の本当の出自、彼のアイデンティティを示すものだった可能性はある、私はそう直感した。

 茶道の稽古は口伝で行われる。だから和巾点の点前を教える際、密かに玄々斎の出自の謎も伝えられてきたのかもしれない。が、ここに一つ大きな問題がある。私自身がこの点前を教えるにあたって「光格天皇よりの拝領裂」や「高貴なお血筋」を自分の弟子に伝えるべきなのか、伝えて良いのかということだ。

 少なくともこんな話は研究会やゼミナールには出てこない。私自身、和巾の由緒が「光格天皇よりの拝領裂」というのは師匠の稽古以外で聞いたことがない。十四代淡々斎の時代までは古帛紗と仕覆の裂地は別々だったそうだが、現代では「和巾用」に作られた古帛紗と仕覆のセットが販売されていて、稽古でも「○○緞子でございます」といった裂地の名前だけを応えることが多いようだ。

 和巾点が時代こそ新しいが特別な点前であり、そのためわざわざ四ヶ伝と並んで位置付けられていることの意義や重みは今どれだけ伝わっているのだろうか。まして、玄々斎の出自に関する謎など誰も伝えてはいないのかもしれない。でも、もしも私が師匠から伝えられ、気づいてしまった可能性を誰にも伝えぬままうっかり新型肺炎で死んでしまったりしたら後悔してもしきれないのでここに記しておくことにする。

 万が一、私と似たような話を伝え聞いている人がおられたらこっそり教えてください。私はこれを書くまでもう何年も悩み続けてきたのですから。

 全くそんな話は聞いたことがないという皆様は「コロナ騒ぎでちょっとハイになったお茶の先生がおかしなこと言ってる」くらいに受け止めて、くれぐれも本気にしたり吹聴したりしないように。公式見解はあくまで「玄々斎は三河奥殿大給松平家の出身、十歳で裏千家に養子に来た」ですよ、お忘れなきよう。