sgotoの日々是好日

茶道と共に歩み考える日々を綴ります

茶名を取るべきか否か

裏千家茶道には許状の他に資格というのがある。以前は許状だけだったが、最近は取得した許状に応じて「初級」「中級」「上級」「講師」「専任講師」などの資格が伴うようになった。これは履歴書などに記入する際、一般の人にもわかりやすくするために設けられた呼称だそうだ。

が、そんな資格制度よりもはるかに有名なのが「茶名」である。茶名とはお家元(裏千家のお家元は代々千宗室)から一文字を取り、「宗○」という茶名をいただく。裏千家の場合は茶名=専任講師という資格になるが、日本的な習い事で「名前」を取るのが「それなりにやった証拠」だということは世間一般のお茶の世界と関わりのない方々もよくご存知である。

実際のところ、茶名を取ろうが取らずに済ませようが習うことができる点前の数には違いがない。茶名はあくまで「名前」であって、稽古のお許しをいただくのとはまた別の位置づけなのだ。だが、この茶名を取るか、取らずに稽古を続けるかはその後の「お茶人生」に多少なりとも関わってくる。

人生ゲームの分岐点みたいなものだが、私は「取る」方の道を選んだ。

茶名を取ると決めた当時、私にあまり深い考えはなかった。社中ではある程度の年数お稽古を重ねたら茶名を申請するのは当たり前という風潮があって、すでに大勢の方が茶名をお持ちだったので、私も何となく友人たちと一緒に申請したのだった。

ただ、一つだけ自覚していたのは茶名を取ることには一つ「メリット」があることには気づいていた。師匠は茶名を持たない人には濃茶席で点前をさせないという方針をお持ちだったのだ。普段濃茶の稽古をしているのに茶会になるとなぜ自分が薄茶席の担当になるのか、その理由が「茶名を持っていないから」だと分かった時は驚いたが、茶名を取って初めて濃茶席の担当になれた時はとても嬉しかった。(ただ、その責任の重さまでは気づいていなかったが)

茶名を取ると師匠や先輩方の私に対する扱いも少しだけ変わった。お茶会の手伝いの頭数の一人として当てにされるとか、社中で雑費の積立金をする時の金額が変わるとかその程度のことではあるのだけれど、要するに「一人前」としての勘定に入るようになったのだ。なるほど、茶名にはそういう意味もあるのかと感心した。

師匠からは「先輩方をお呼びしてお食事会をしなさい」と命じられた。本来、茶名を取った記念に茶事を催したり、茶会を開いたりするらしいのだが、私たち(一緒に茶名を取った仲間は数名いた)にはハードルが高いと思われたのだろう。

私たちは悩んだ末、都内の一流ホテルの中華レストランの個室を借りて食事会を開き、食後に皆様にお菓子と薄茶を一服ずつお出しして、先輩方には記念品に干菓子盆をお渡した。多分、日本料理の方がベターだったのだろうし、記念品を自分たちで干菓子盆に決めたことが幾分師匠の気分を害した(師匠にご相談するものだと後からご注意を受けた)が、お店のサービスが良く、お料理がとても美味しかったので会が終わる頃には師匠も先輩方もご機嫌であった。

単なる食事会には過ぎなかったが、皆と相談して日時を決め、招待客を決め、場所を決め、予算を決め、お菓子とお茶の用意をし、記念品を用意して実際に会を催す。ささやかではあったが、これが私にとって初めての「亭主役」(のようなもの)だった。そしてそれは一応成功した。

こうして振り返ってみると、茶名を取るということが茶道教室の一生徒が茶人になるための通過儀礼だったことが分かる。茶名を取るとお茶の稽古が初めて次のステージに進む。お茶を「習う人」からお茶を「する人」に向かう最初のマイルストーンであったと。

このエントリを書いたのは、社中の後輩が「私は茶名は取らない。だってその前の許状まで取っていれば全部のお点前習えるじゃない」と語っていたのを偶然耳にしたからだ。

一生「習う人」を貫くという道を選ぶ人もいる。それは経済的な事情だったり、お茶のために使える時間の制限だったり、運悪く先生に恵まれなかったり、様々な理由があることも知っている。私たちの稽古場にも「茶名」は取らないがその前の許状までは持っているという方が時々見学に来られる。そういう方々はお稽古することが好き、少しでも色々な点前をやりたいという強い意欲をお持ちである。

それでもお茶には「習う楽しみ」のほかに茶事や茶会を自分で「する楽しみ」があることもまた確かであり、楽しみの大きさを比べると後者は前者よりもはるかに大きい。私の感覚では少なく見積もっても十倍くらいの違いはある。

亭主として客を迎えるには様々な経験を積む必要があるが、最初の一歩として「茶名」の果たす役割は大きい。何といっても「茶名をいただいたお祝い」であれば、誰だって正式な茶事茶会を開くことができるのだし、師匠や先輩は招待に快く応じてくれる。名目があって、お客様がいる。お茶を「する人」への一歩を踏み出すためにこれ以上の素晴らしい状況はあり得ない。

もちろん、お披露目の茶事茶会を行なったあと「習う人」に戻っていく方々も大勢いる。「するお茶」というのは点前を覚えるのとは違うまた別のタスクをこなす必要があるし、それは点前稽古だけでは学べない。

実はそのスキルの何割かはお茶を人さまにお教えすることによって培われる。お茶を「教える」ということは、毎回道具の取り合わせを考え、お菓子や花を用意し、準備から片付けまでを滞りなく行うことであり、それはこれ以上ない茶事茶会の練習である。(だからこそ裏千家では「茶名」のあとには「準教授」という資格があり、師匠の推薦があれば誰でも「準教授」になれる)

私は人にお茶を教えるようになって初めてそのことに思い至った。師匠がなぜあれほどまで「人に教えなさい」と何度も何度も繰り返し私たちに説いたのか。

道の先にはまだまだ道が続いている。

ただ、茶名を取るときに私自身そんなことは何ひとつ気づいてはいなかった。ただ、師匠に導かれるままにそうしただけで、その先に何があるのかはまったく見えていなかった。稽古は常に眼前の課題をこなすことに全力を尽くさなくてはならない。自分がある段階に達したときになって、初めて次が見えてくる。そういう風にできているのだ。

「茶名を取るべきか否か」というタイトルをつけたのは、今の時代に「先が見えない」ことは多くの人にとって不安であり、踏み出さずにとどまることをあっさり選んでしまう人が意外に少なくないと知ったからだ。ささやかな私の経験談でよければ参考にしてください。

そんなわけで今回はオチはありません。