sgotoの日々是好日

茶道と共に歩み考える日々を綴ります

相伝帛紗のこと

相伝帛紗」と呼ばれる織のふくさ

 

 裏千家十四代淡々斎(無限斎)の花押と「好」の文字の縫い取りのある帛紗。模様が立体的に浮き出している織物でできているが、古帛紗ではなく塩瀬の帛紗と同じサイズだ。

 実は、この帛紗はある事情で昨年私の手元にやってきた。花押はあるものの明らかに使った形跡があり、いくつかお茶のシミと思しきものもついている。これがもし、お家元から頂戴した帛紗であればシミがつくような使われ方をするハズはない。いったいどういうものなのか?

 ところが先日、突然その謎が解けた。なんと、なじみの茶道具屋さんの引き出しからこのうちの一枚とよく似たものが出てきた。「裏千家でも昔は織の帛紗を使う点前があったらしいんですよ」と話していたら「ああ、それ『ななこふくさ』でしょ」といってお姉さんが引っ張り出してきたのだ。

 松唐草の地紋に淡々斎の花押、一緒に入っていた紙には「斜子帛紗 真台子用」と書かれていた。

 その帛紗は今から十五年ほど前にある先生から注文があって問屋から取り寄せたものだそうだ。当時すでに問屋の在庫も残りわずかだったという。「社長が『淡々斎の時代にはお点前ごとに違う色の帛紗を使ってたんだ』って言ってたわよ」とお姉さんは言った。

 ちなみに社長というのはお姉さんの父、私が長らくお世話になった茶道具屋の店主のことだが昨年鬼籍に入られた。淡々斎の時代を知る人は続々と亡くなっていて、その頃の話をしてくれる人は私の周りにはもういない。淡々斎宗匠は私が生まれた頃に亡くなられたのでそれも仕方のないことなのだが。

 後日、インスタグラムに写真とともにこの経緯を載せたところ「ああ、それ相伝帛紗でしょ。玄々斎が昔宮中の女官にお茶を教えていた時、皆髪型とお化粧がそっくりで見分けがつかないので、お点前の種類ごとに帛紗を変えたっていう話を聞いたことがある。昔は人気があったらしいけれど、今扱ってるのは徳斎さんぐらいかしら」と I さんが教えてくれた。持つべきは博学の茶友である。

 相伝帛紗(そうでんふくさ)、というのがこの帛紗の一般的な呼び名だったのだ。

 名前さえわかれば調べようもある。「相伝帛紗」でインターネット上をあれこれ調べてみると様々なことがわかった。最初にこの帛紗を定めたのはやはりI さんの言う通り玄々斎で、十二単衣の襲(かさね)の色目から考案されたものであること。その後、圓能斎、淡々斎がそれぞれ好まれている。

 小習が緑色の松重、茶通が桃色の桜重、唐物が草色の橘重、台天目が黄色の紅葉重、盆点が臙脂(えんじ)の紅梅重、行台子が藤色の花田重、真台子が鼠色の松唐草、そして奥伝(十段)が紫の菊唐草。このほかに入門したばかりの人が持つ赤色の帛紗もあったらしい。

 ある茶道具屋さんが「この帛紗は指導者向け」と書いていたので、おそらく自分で求めるものではなく、許状を取った弟子に師匠が与える、そんな使い方がなされていたのではないかと思う。

 ここまでわかると今日では相伝帛紗が使われない理由も想像がつく。鵬雲斎の時代に許状の体系が変わったためだ。現在だとこれらのほかに「茶箱点」「和巾点」「大円草」「大円真」が増えて「十段」の許状がなくなっている。玄々斎の選んだ美しい襲の色目と点前の許状が対応しなくなったのではどうしようもない。

 でも、この相伝帛紗の影響は今も裏千家に残されているな、と私は感じた。

 裏千家の女子用稽古帛紗に赤色を使うのはきっとこの相伝帛紗の影響だろう。そして、稽古で使うのであれば赤や朱以外の帛紗を使って良いことになっているのも、相伝帛紗に九種類の色目があったことと無関係ではあるまい。すぐお隣の表千家さんが男性は紫、女性は朱の帛紗しか使わないことを考えると、きっと元々は帛紗の色にそれほど多くのバリエーションはなかったのだろう。

 ただ、なぜ織の帛紗をやめて皆塩瀬の帛紗を使い帛紗にするようになったのかはわからない。淡々斎は私の持っている斜子織の帛紗とは別に、塩瀬の無地の相伝帛紗というのも好まれているようだから、淡々斎の時代に塩瀬の方が好ましいとなったのだろうか。あるいは戦争の影響で斜子織の帛紗が作れなくなったなんてことがあったのだろうか。

 相伝帛紗についてはまだまだわからないことがあるけれど、疑問を心に留めておけば、いつかどこかで答えが見つかるものだ。またそんな日が来るのを楽しみに待つことにしよう。