sgotoの日々是好日

茶道と共に歩み考える日々を綴ります

不味い薄茶は誰のせい?

薄茶

 お茶会で出てくるお茶というのは大抵の場合は美味しい。お家元お好みの高級抹茶をぜいたくに使った濃茶や薄茶を時候の風物を象った色とりどりのお菓子とともにいただくのは至福のひとときだ。

 「大抵の場合は」と言ったのには理由がある。たまに「ハズレ」があるのだ。

 私の経験上、ハズレは濃茶に多い。とくに一席に何十人も入るような大寄せの茶会に参加して中頃より後ろの方の席に座っていると、「これがお濃茶なの?」と思うような代物が運ばれてくることがある。

 これまでで私が引いた一番のハズレは、薄過ぎて到底濃茶とは呼べないものだった。おそらくは一度下がってきた茶碗を洗おうと水屋で誰かが湯を注いだものを、間違えてそのまま客に出してしまったものに違いない、飲んですぐ私はそう思った。

 おそらく三十年近く前のことだが今もはっきり覚えている。当時腹を立てなかったのはそれが身内(社中)が担当する席だったからだ。むしろ「この茶碗が当たったのが同じ身内の者たちでよかった(コロナ前だから三人での回し飲みだった)」とほっとしたのだった。

 大寄せ茶会の濃茶席の水屋というのがどれほどの戦場であるかは、裏を手伝ったことのある者ならわかる。すべてのお客様に美味しい濃茶をお出しするというのがどれほど困難を伴うことなのかも。

 ハズレの濃茶ができてしまう原因は、席主というより水屋手伝いの者の不手際に起因する。だからこそ献茶式など大きな茶会で濃茶席を持つような先生方は、茶道具屋から手伝いの人を呼ぶのだ。彼らは茶会用の濃茶を練るプロフェッショナル、必殺仕事人だ。三人前、五人前の濃茶を茶会の間ずっと何服も何服も練り続ける。あれはそう簡単には真似ができない。

 私がとんでもない濃茶を飲まされた日、水屋に入っていた茶道具屋はいつもの必殺仕事人ではなく若いお兄さんだった。彼は客に出すすべての濃茶に滞りなく目を配るだけの経験を積んではいなかったのだろう。

 その後も大寄せ茶会で「よく練られていない苦い濃茶」や「薄すぎる濃茶」にあたったことはあるが、そんなときは「その一碗が客にどのような思いをさせるのか」を教えてもらったと考えることにしている。

 濃茶とは修行なのだから。

 同じ大寄せの茶会でも薄茶の不手際はそれほど大きな事態にはならない。客としての不満はせいぜい「量が少し少なめだった」「温度がぬるかった」「なかなかお茶が出てこななかった」とかその程度のことで、致命的にまずいお茶を飲まされる心配はない。

 おめでたいことに私はそう信じていた。つい先日までは。

 というのも、ある大寄せの茶会でついに当たりを引いてしまったのだ。「お茶会でこんなのが出てくるなんて大ビックリ!!!」というレベルのエラく不味い薄茶に出会ったのである。

 理由はすぐにわかった。これは水のせいだ。水屋の水道から出てくる水の状態が良くないのだろう。そして原因が水であるならばこの一碗では済まない。今私と同じ席に入っている全員が飲んでいる薄茶、いや今日の茶会の客の飲んだすべての薄茶が同じように不味いに違いない。

 おお、ジーザス!なんてこと!

 私は思わず亭主の顔を見て「あなたはこのお茶を今日まだ一度も飲んでいませんね」と心の中で呟いた。

 茶室の水屋の水栓というのは意外に鉄さびが出たりゴミが混じったりする。なぜ、そんなことを知っているかというと実は自分が稽古場として借りている茶室でも水の問題に悩んで、蛇口に簡易型の浄水器を取り付けて使っているからだ。

 Amazonなどで数百円で売られている三層式の簡易型浄水蛇口をつけるだけでもかなりの改善効果はある。水だけで飲んでも味が変わるのはわかるし、最初は真っ白だった浄水蛇口のフィルターが徐々に黒ずんでいくのをみると「水屋の水道を信じちゃダメだ」と思わされる。

 稽古場の水道でこれだけ効果があるなら、と友人たちと花月の稽古をする時に借りている区の施設の蛇口にも同じものを取り付けてみたところ「えっ!今日はなんかお茶が美味しいんだけど、どうして?!」と友人の一人が叫んだくらいだから、茶道をする人なら水の味の違いはかなりはっきり分かるものなのだろう。

 だが、今回の茶会の場合「水が不味い」ことを席主の責めに帰すのは少々気の毒な気もする。茶会は貸し茶室で行われていたわけだし、準備の段階で水屋の水道水の味見までするかというと普通そこまではしないだろう。

 貸し茶室の側も新型コロナウィルス流行のせいでここ二年ほど稼働率が相当下がっていたらしいから、もしかしたら水道設備の更新なども滞っていたのかもしれない。コロナの流行さえなければ、もう少し水の状態はマシであったかもしれないのだ。

 いや、水道水そのものが不味いということが根本的な原因なのだから、この責めは東京都水道局に帰すべきなのかもしれない。

 責任の所在をどこに求めるにせよ、一つだけ確かに言えることがある。

 茶道具がどれだけ立派であっても、どれほど見事な軸や珍しいお花が飾られていようとも、どれほど当日のお菓子が美味しくても、不味い薄茶はその茶席のすべてを台無しにするということだ。

 もしも自分が席主の立場で、茶会が終わった後に親しい客の誰かから「今日のお茶会の薄茶の味が変だったわ」などと聞かされることになったらどうしよう? 私なら恥かしくて耐えられない。

 ああ、でも茶会の薄茶がとんでもなく不味かったと教えてくれる人があればまだいい。誰ひとりそのことを伝えず、席主だけが知らないままなのだとしたら。次に茶会を開こうとしても何やかやと理由をつけて誰も客がこない。そうなってしまったらもはや悲劇、いやホラーとしか言いようがない。

 茶会の朝には客に出す前に薄茶を飲むべし、と私は心に深く刻んだ。この世に不味い薄茶ほど恐ろしいものはない。