sgotoの日々是好日

茶道と共に歩み考える日々を綴ります

お茶会の写真を撮る

雨に映える紅葉

 

 令和四年寅年、何を隠そう私は還暦を迎えた。私より五日間だけ早く生まれた夫も当然ながら今年還暦を迎えている。仮にもお茶を嗜む者が二人そろって人生の節目を迎えるのであるから、これはお茶会をして祝うしかない。

 幸いにも世の中の風向きが「何もかも我慢するのはもう無理、感染症に注意しながら少しずつやっていこう」という風潮に変わってきた。決定的だったのは日頃くじ運の悪い私が、茶室の利用者抽選会で見事に若い番号を引き当てて、11月後半の休日に茶室を借りることに成功したことだった。

 これはもう神仏から還暦茶会を開く許可が出たに等しいではないか。ついにあの掛軸をお披露目する日がやってくるのだ。

 「あの掛軸」とはいつの日か晩秋に釜をかける日が来たら使おうと思って何年か前に買っておいたもの、清水の舞台から飛び降りるつもりで入手した「とっておき」のお軸である。還暦の茶会でお披露目できるなんて、なんて私はラッキーなのだろう。

 私はすぐに頭の中で算段を始めた。当日の席主を夫に任せてしまえば私自身が水屋に入って差配ができる、お手伝いをしてくれる社中の皆様のうち半数はお茶を初めて半年から二年程度だが、お運びくらいはできるだろう。残りの半数はお点前ができるし、水屋仕事もできる。前回ここで茶会をした四年前は、人手が足りなくて同門の友人たち数人に手伝ってもらったが、今度は彼女たちを全員お客様としてお招きしよう、と。

 お客様への案内状や茶券を作り、道具組を考える。まだ感染症が心配だからスペースには十分な余裕を持たせる必要があるし、お菓子やお茶碗の出し方にも工夫が必要だろう。それらを一つ一つ決めて、足りないものを購入し、当日のお土産やお菓子の手配もしなくれはならない。茶会の準備というのは本当に細々とした作業が山盛りなのだが、そこが楽しいところでもある。

 私自身はこのお茶会が本当に楽しみで仕方がなかったのだが、初めてお茶会に参加する社中の面々がとても不安そうだったので、A4一枚の注意書きを作って事前に配布して周知することにした。

 茶会の日の服装は着物の場合は半衿と足袋は白、髪はアップにすること。洋服の場合は稽古着は使わないので帛紗をつけられるようベルトをすること、アクセサリー類(ブローチ、ペンダント、イヤリング、指輪など)はつけないこと。自分の荷物をまとめられるように風呂敷を持ってくること等々。その他の注意事項として「多額の現金や貴重品を持ってこない」「茶道具を撮影しない」の2つも付け加えておいた。

 お茶会の日は人の出入りが増えるので万一の場合の盗難に備えておくにこしたことはない。こうした場所で最も盗難に遭いやすいのは現金(お札)であるが、持ってこなければ盗られる心配はない。

 写真撮影については事前に釘をさしておかないと、おそらくほとんどの方が写真を撮ってしまうだろう。シャッターを押した瞬間人は対象物を見るのをやめてしまう。お茶会というのは「お道具をじっくり鑑賞して記憶に留める」つまり「写真に頼らず目で観る」という訓練の場でもある。

 準備は着々と進み、いよいよ茶会の当日がやってきた。あいにくお天気は雨だったが、雨に濡れた庭園の紅葉・黄葉が色鮮やかで実に見事で、例の掛け軸に書かれた語句にぴったりの風景が眼前に広がっていることに私は感激した。

 悪天候にもかかわらずお客様は皆さん予定通りの時間に来てくださった。お点前も亭主もお運びもところどころ小さな失敗はあったが、予定どおり午前二回、午後二回の合計四回の茶席を滞りなく行うことができた。

 茶会で時々ありがちなのは、慌ててお運びの人どうしがぶつかって誰かの着物に緑色の抹茶がかかってしまうとか、着物でお点前をして袖を建水の中の汚れた水に落としてしまうとか、茶道具が壊れてしまう(原因は色々ある)といったトラブルだが、今回そうした大きなトラブルがなかったことで私は安堵した。

 さて、私のブログに慣れた読者の方々はそろそろお気づきであろう。ここまでの話はすべて前振りにすぎない。本題はいよいよここからだ。

 無事に一日を終えてタクシーで帰宅する道すがら、LINEにメッセージが届いていることに気づいた。この日の茶会にお手伝いとして参加してくれたKさんからだった。彼女は茶会の始まる前に全員で撮影した集合写真をさっそくLINEグループのアルバムに登録してくれたのだ。さすが、若い方はやることが早い。

 が、彼女の作ったアルバム見て私は頭を抱えた。

 そのアルバムには床の間、点前座の棚と水指、待合の床、箱書に会記、茶室の中にあったありとあらゆるものの写真が載っていたからだ。もちろん私がこの茶会のために用意した「とっておきの掛軸」もバッチリ撮影されている。一体全体いつの間にこんな写真を撮っていたのだろう。全然気がつかなかった。

 それにしてもなぜ?「茶道具を撮影しないこと」という事前の注意書きを聡明なKさんが読んでいないはずはない。タクシーの中では他にすることもないので私はじっくりと考えてみることにした。Kさんの頭の中で何が起きたのか、なぜ事前に配った注意書きがものの見事に無視されることになったのだろうか、と。

 ここには「写っていないもの」がいくつかある。茶杓と茶碗だ。棗は棚の上に置かれているのはわかるものの小さくて詳細は見えない。彼女にとって「茶道具」とは棗や茶杓、茶碗なのではないか。もしかしたら掛軸や箱書が「茶道具」であるとは気づいてないのでは?

 Kさんの目には掛軸や箱書もお庭の紅葉と同様に素敵な背景、茶会の演出の一つとして映っていたのかもしれない。「でも、ちがーう。そうじゃない!!」と心の中で私は叫んだ。「その演出はすべてお客様のために私が仕組んだもので、あなたが勝手に写真に撮ったり配ったりしていいものじゃないのよ」と。

 一晩悩んで翌朝、私はKさんにLINEでメッセージを送った。床の間の掛物や箱書が写っている写真をアルバムから削除して欲しいというお願いとともに、茶室にかざってあるものはその場に来たお客様だけにお見せするというのが茶道のもてなしの考え方であるから来なかった人たちにはお見せできないこと、茶会に招かれた客は家に帰ってから見たものを文書や絵で記録するのが昔からの習いである、と極力あっさりとした説明を付け加えておいた。

 彼女からはすぐに返信が来た。「とてもきれいだったのでつい写真に撮って皆さんと共有したいと思ったのですがお茶の世界ではそれはしないということですね」と。

 正解です。それでいいんです。

 彼女の返信を読んで私も一つ理解できたことがある。現代人(の一部)にとっては「きれいなものを見たらすぐに写真を撮りたい、仲間と共有したい」というのはもはや脊髄反射的な行動、習いになっている、ということだ。

 私が本当に心配しているのは、Kさんや他の初心者の皆さんがいずれ他所の茶会にお客様として参加した時に、何気なくスマートフォンで写真を撮って周囲の方から白い目で見られたり、知らないよその先生から叱られたりしないだろうか、ということだったりする。それで茶道が嫌いになったりしたら目も当てられないではないか。

 が、そんな私の親心を逆撫でする出来事が数時間後にまたしても起こった。

 写真を送ってきたのはBさんだった。彼女がお茶会で案内係をしていた時に「お点前をしているMさんの写真を撮ってあげてね」とお願いしていたのだが、アルバムには中央に掛軸だけがドーンと一枚映った写真と待合の床の間の写真が含まれていた。彼女は初心者ではないし、何度か茶会の手伝いもしている。「茶道具の写真は撮らないでね。撮って良いのは人だけよ」とこれまで何度となく口を酸っぱくして伝えてきたつもりだったのになぜ?どうしてその写真を撮った?

 さすがにわたしも堪えきれず、Bさんへの返信は少し厳しい内容になった。「お点前している人を撮る時に道具が映り込むのは仕方がありませんが、掛軸や床の間を撮ってはいけません。お客様やお手伝いの方は亭主の宝物を見せていただく立場ですから、茶室の中で撮って良いのは人だけです」

 息を吸ったり吐いたりするのと同じように写真を撮り、それを共有している人たちに向かって「それはやめてね」とやさしく注意する程度では何の抑止力にもならないのだと私は思い知らされた。お茶会の写真を撮りたいという衝動、これは相当に手強い。

 でも、考えようによってはそれだけ今回の茶室の設えが彼女たちの撮影したいキモチを誘発したということだろう。私のとっておきの掛軸、そして床の間や茶室の設えが未来の茶人たちを十分すぎるほど魅了したのだ。せめてそれを慰めとしよう。

 先日、わが流派の大宗匠は「わたしはスマホは持ちません」とおっしゃっていたけれど、もし、今の時代に利休さんが生きておられたら、スマートフォンをお持ちになったり、それで写真を撮ったりなさるだろうか。ぜひご意見を伺いたいものである。