師匠が亡くなった日
それは歳も押し詰まったとある日の午後、いつものように稽古の準備をしているときだった。夫の携帯の呼び出し音が鳴った。画面に出た名前をちらっと眺めた瞬間、私は嫌な予感がした。
案の定、S先生が亡くなったことを知らせる電話だった。
私がS先生の教える茶道教室の門を叩いたのはまだ二十代の頃だった。当時勤めていた会社のすぐ近くに大きな看板が出ていたのを見て、同僚のYちゃんを誘って二人で見学に行ったのだ。S先生はあまり口数の多い方ではなかったし、稽古中は厳しかった。先生には8歳違いの妹がいて、妹のT先生の方はおしゃべりで愛想が良くよく笑う方だった。
茶道教室の生徒はほとんどが女性である。S先生は生徒の誰かが結婚するたびに「お姑さんを自分の親と同じように大事にしなさい」とおっしゃった。でも、仕事が忙しくてお稽古に行けない日が続いたときでも「お仕事頑張りなさい」とだけ言って、小言は一言もおっしゃらなかった。教室にはお金持ちの奥様も多かったのだが、そんな中で稽古を続けられたのは先生の態度によるところが大きかった。
私が結婚した後、夫をお茶の稽古に引き込んだのもS先生だった。お茶のお稽古が終わったあとでお花見をすることになり、その席に仕事帰りの夫が顔を出して挨拶すると、S先生は彼に「来週からあなたもお稽古にいらっしゃい」と命じたのだ。
先生の言葉にはいつも有無を言わさぬ強さがあった。逆らう余地がない。「お茶会があるからお手伝いに来なさい」と言われたら行く。「許状を取りなさい」と言われたら取る。でも、どうやらそれは相手を見ながら言っているようだと気づいたのは随分あとになってからのことだった。
茶道とはどういうものなのか。言葉で説明するのではなく態度で示す。経験を積ませる。それが先生のやり方だった。言われたとおりに許状を取り、お茶会や副釜の手伝いをしているうちにある時突然「あ、あの時のこれはこういう意味があったのだ」という気づきが生まれる。それを何度か繰り返すうちに、私はすっかり茶道の魅力に取り憑かれていた。
ある時からS先生の奥伝の点前稽古の頻度がどんどん増えていった。「まだこれも教えてない、あれも教えてないと思うと死ぬに死ねない」と冗談めいて口にされたが、おそらく御本心だったのだろう。そして「あなたたちもお茶を教えなさい」と繰り返しおっしゃるようになった。
茶室も茶道具も持たない私たちにお茶を教えることなど無理だ、と当時の私は思っていたのだが、先生が本当にお稽古を辞められると伺った時には、私のハラも同時に決まっていた。お稽古場を作り、お茶を教えるのだ、と。場所は借りれば良い。道具は借りるか、足りなければ買えば良い。それだけのことだ。
S先生はお稽古を辞められてから入退院を繰り返すようになり、やがて老人施設に入られたと人づてに聞いた。どこにいらっしゃるかはわからなかったが、なぜか稽古の日にはいつも先生がそばにいてくださるような気がした。晴れ女だった先生のご加護で稽古日は雨が降らない。迷ったときは心の中の先生に問いかけると答えが得られる。心強かった。
稽古場で訃報を聞いたのはおそらく偶然ではなかったのだろう。「教える」ことは「習う」こと以上に多くの「気づき」をもたらしてくれる。S先生のおっしゃることは正しかったと私はこの三年間で確信した。S先生の人としての肉体は滅びても先生は今なお私の中に生きている。
「お茶は人柄、心のきれいな人の点てるお茶は美味しい」という声が今も聞こえてくる。手先が不器用でも、高価な道具が買えなくても、美味しいお茶をお客様に差し上げてひとときの喜びを共有することはできる。誰にでも、きっと。
夜一人になってから、私は泣いた。