sgotoの日々是好日

茶道と共に歩み考える日々を綴ります

茶道の適齢期

稽古場の見学に来られた方から突然「三歳になる娘がいるのですが、いずれお茶を習わせたいと思っています。何歳から始められますか?」と質問された。意外な質問だったので一瞬答えに詰まったが「六歳からですね」と答えた。

何歳から稽古を始めることが可能なのか、確かな答えはまだ私の中にはない。「習い事は六歳の六月六日に始めると上達する」という言い伝えのようなものはあるのでそれに従ったわけだが、あながち無責任な答えでもないとは思う。というのも、現在教えている中で一番若い(幼い)のは小学校一年生の女の子で彼女が初めてやって来たときは幼稚園の年長だったから、ちょうど六歳ぐらいから稽古を始めている。

が、六歳児にお茶の稽古をつけるのはなかなかの難儀だった。帛紗や茶道具の大きさに比べて手が小さいから、できないことの方が圧倒的に多い。そんな中でもお茶の稽古が嫌いにならないよう、飽きずに最後までできるようにするにはどうするか、最初は私もそればかり考えていたように思う。彼女がお茶の稽古のどんなところに関心を持っているのかを観察して、うまくできたことは最大級に褒めたたえた。

そんな彼女も何度か稽古するうちにみるみる様子が変わってきた。子供は記憶力が良い。月に一度稽古に来るだけでも前にやったことをきちんと覚えている。前回の続きを教えられるから、少しずつでも前に進んでいける。お菓子も上手に食べられるようになったし、柄杓を持って点前らしきこともできるようになってきた。これには私の方が驚いた。

大人の方でも「子供の頃お稽古をしていたことがある」という人は、ブランクが三十年あろうと子供の頃やったところまでは容易に再現できる。帛紗をつけて点前座に座ると少し言葉をかけてあげるだけで体がするすると動き出す。人間には子供の頃インプットしたことは忘れないという仕組みがあらかじめ備わっているのだろう。

若いほど覚えがよい、ということはその逆もまた真である。ある程度年齢がいってしまうと、新たに点前を覚えるのはかなりの困難を伴う。小学校一年生は一ヶ月前のことを覚えていられるが、人間を五十年以上やってきた方だと話は全く違う。一ヶ月前に稽古したことは忘却の彼方である。

その上「仕事」という敵もある。それだけの年齢でお茶の稽古に来る余裕のある方は何かと忙しい。ただでさえ覚えが悪い上に稽古に来る時間がなかなか取れない。

私の稽古場にも月に一回だけだが熱心にお稽古に来ている女性がいる。彼女は一ヶ月前に習ったことはきれいさっぱり忘れる。帛紗を右から左に打ち返す、茶杓を握り込んで棗の蓋を開ける、教えればできるようにはなるが、一ヶ月たつとまたできなくなっている。かれこれ半年以上初歩の盆略点前を稽古しているはずだが、それ以上先には進めない。

このシシュポスの神話のような状態を脱する術は今のところ見出せていない。彼女の指導を担当しているのは私ではなく夫なのだが、相当イライラしているのが傍目にもわかる。夫の点前の覚え方、教え方は非常に分析的なので、相手が若い人だとあっという間に点前を覚えてくれるのだが、その方法論は彼女にはまったく通じない。

孔子は言った。「五十にして天命を知る」と。半世紀も生きれば大抵の人は自分自身というものを理解しているのではなかろうか。くだんの彼女も「覚えられない」という自覚はある。だったら、今の稽古をずっと続けるというので一向に構わないのではないか、という気もしている。元来茶道の稽古の進み具合は個人差が大きいものだし、他の人と比べても仕方がない。

最近私はオーバーフィフティと思われる入門希望者には「これからお茶を始めること」の困難さをあらかじめお伝えすることにしている。若い年齢の方々と同じスピードでお茶の点前を覚えるのが難しいこと、他の人と比べると心が折れるかもしれないこと。稽古が終わったらメモを取る、家で復習をする、最低でもそれくらいはやらないと無理だと思う、と今後の見通しを正直に伝えている。

が、彼ら彼女らは私の心配をよそに今日もまた「出張が入ってお稽古にいけなくなりました、次は○月○日にお伺います」というメールを送ってくる。それでもお茶をやってみたいのなら、とことん付き合いましょう。あなたがそうおっしゃるなら、私の方から根をあげることはありませんよと、近い将来訪れる試練を予感しつつ私は自分に喝を入れる。

お茶を習い始めるのに適した年齢なんて存在しないのだ。食べたいときが美味いとき、じゃないけれど、習いたいときが習いどき。今からでもお茶を習いたい、というのは決意であり信念の問題だ。オーバーフィフティーズの皆様にはどうかその信念を貫いて私や夫を「あっ」と言わせて欲しいものである。