sgotoの日々是好日

茶道と共に歩み考える日々を綴ります

許状料の表書き

 茶道には「許状」というものがある。ご存知ない方にはよく勘違いされがちなのだが、許状は「ここまでできるようになりました」という到達度を示す書類ではなく「この点前を習っても良いですよ」と文字通りお家元が「許可」を出してくださるという書類である。

 先日、Kさんの許状を取り次いだ。許状というのは習っている先生を通じてお家元に申請をすることになっている。つまり今回の場合は師匠である私が、弟子のKさんの申請書をお家元に提出することになるのだが、驚くべきことに提出の方法はとくに明文化されていない。

 茶道の世界が面白いと思うのはこういうところだ。すべては「自分の先生に習う」のが標準であり、わからないことは「まず自分の先生に聞く」のがマナーでありルールである。必要な手続きマニュアルなどは存在しなくても、知る必要のある人には情報は伝わる。これはこれで合理的だと思う。

(「手続きマニュアルはない」と書いたのだがこれは真実ではなかった。「許状申請の手引き」なる小冊子が実は存在していることを最近になって知った。平成30年9月改定、と書かれていたのでそれより前から存在していたことは確かだ。「初めて許状を申請する」と言えば裏千家の事務所の方がくださるのだそうだ。)

 私の場合、初めて許状の取次をすることになったときにすべて師匠に教えてもらった。師匠の後をついて裏千家の事務所に行って書類を書いた。それまで一度も事務所に行ったことなどなかったし、入り口が建物のどこにあるかすら知らなかった私には新鮮な経験だった。

 が、わからないことを先生に尋ねるというのはなんとなく憚られることもある。私自身も弟子の立場として過ごす時間の方が長いからよくわかる。先生の側では「そんなことくらい私に聞いてくれればいいのに」と思っているのだが、優秀なお弟子さんほど「ちょっとしたことなら先生に聞くより自分で調べてなんとかしたい、先生の手を煩わせたくない」と考えがちである。

 Kさんはまさにそういう人なのだった。

 Kさんが申請書とともに申請料を持ってきた。封筒の表書きが「御挨拶」という見慣れないものだったので「表書きを『御挨拶』にしたのはどうしてですか?」と尋ねると「いや、教室の誰かが許状の申請のときはそう書くものだと言っていたので……」と言葉を濁した。

 それはおかしい。私はそういう指導は受けてこなかった。師匠は私に「白い封筒を使うこと」と「裏に自分の名前と生年月日を書くこと」を求めたが、特別表書きを指示されたことはない。だから私も自分の弟子には表書きの指示はしていない。「誰か」とはいったい誰のことなのだろう?

 しばらくたったある日、Kさんがはっきりと答えなかった理由がわかった。たまたま開いたYahoo知恵袋で「許状の申請のときには表書きは『御挨拶』」と回答している人を見つけたのだ。Kさんの言っていた「誰か」というのはきっとコレだ。おそらくインターネットで検索してこの回答を目にしたのだろう。

 ご存知ない方のために記しておくと、Yahoo知恵袋というのは「ナレッジコミュニティ」と呼ばれるインターネット上のサービスの一つで、電子掲示板上で誰かが質問を書くと、その質問に誰かが答えてくれる。匿名だから何でも聞けるのはありがたいのだが、回答者が誰なのかわからない以上、回答が正しいかどうかは保証の限りではない。複数の人が回答できるので、信ぴょう性は回答の数、回答者の評価よってある程度担保されるという理屈らしい。

 たしか「御挨拶料」と書くのはお家元にお金を直接持っていくときの表書きだったはずだ。私も一度だけ書いたことがある。その時は白封筒ではなく水引のついた金額相応の封筒と新札を用意した。が、末端の私にはそんな機会は滅多なことでは訪れない(直弟子の偉い先生方は別だろうけれど)。でも、お家元に準じて許状料を入れた封筒には「御挨拶料」と書くように指導している先生もいらっしゃるのだろう。回答者はそういうルールのある社中の方なのだと思う。

 その点からするとKさんの書いてきた「御挨拶」という表書きは間違いとはいえないのだが、そのことよりも私はKさんが「師匠である自分に尋ねる代わりに知恵袋で見た答えをそのまま信じた」という事実が思いのほか胸に堪えたのだった。

 Yahoo知恵袋の「茶道」というジャンルには「この先の許状の金額はいくらかかるか」「伝ものの点前の手順を教えてほしい」、「帛紗さばきのコツを教えて欲しい」等々それこそ「あなたの師匠に聞けば教えてくれるのに」と思うような質問がずらりと並んでいる。中には「先生から『自分で考えてみなさい』と言われたのですが、わからないので教えてください」なんていうのまであった。

 これらの質問が示しているのは「師匠」というのは質問をしにくい存在であり、簡単には答えを教えてくれない存在でもあると思われている、ということだ。お茶の稽古は基本一対一だから、師匠に会える時間、お茶を習える時間は限られている。質問する時間を見つけるのは難しい。でも、もっと勉強したいから知恵袋に尋ねる。多くの場合回答者は懇切丁寧に答えてくれるから、その答えを信用する人が多いのも無理はない。

 でも、ある程度の年数お茶を習っている人なら掲示板やブログやSNSに書かれていることを鵜呑みにすることの危険はよくわかっている。口伝で教わるという茶道のルールはその先生のやり方を丸ごと受け入れるということだ。先生の前で習ったのと違うやり方で点前をしたり、他の教室のマナーを先生に押し付けることは自分の先生に対してとてつもなく失礼な行為に当たる。

 私の師匠は「○○業躰先生がこう言っていたから」「他所ではこう教えていると聞いたから」などと言おうものなら「それならそう言っている先生に習いなさい。どうしても自分のやり方を通すというのなら自分で流儀を興しなさい」とまで言った(幸いそう言われたのは私ではなかったが、横で聞いているだけでも縮みあがる思いがしたものだ)

 私は自分の経験から師匠のやり方に逆らってはいけないと悟ったが、よくよく考えてみればそれで納得したのは「先生のおっしゃることは必ず一理ある」と思えたからだ。指導者のキャリアとクオリティに対する信頼感である。

 件のKさんは元は私の兄弟弟子だった方だ。師匠が亡くなって私が指導をするようになった。もしも師匠が生きておられたらKさんが知恵袋の意見を参考にする必要を感じなかったはずだ。お茶の先生としての格からいったら私は自分の師匠には及ぶべくもないけれど、今の私にはまだ努力と研鑽が足りないのだと痛感した。せめて直接指導している方々の信頼が得られる存在でありたい。

 知恵袋になんか負けてはいられない。